【いろいろな人の考えや思いを受けとめれる人に】

【いろいろな人の考えや思いを受けとめれる人に】

 

 皆さんこんにちは。

 秋晴れが心地よい季節となってまいりましたね。愛媛では、朝晩は冷えますが、日中は長袖では暑いくらいの気温になり、体調を崩す方も増えています。愛知はいかがでしょうか。

 どうぞ皆様もご自愛くださいませ。

 

 さて、今回は私が最近感じていることについてお伝えしていきたいと思います。それは「他者の考えや言動を受けとめる」ということです。受け入れなくてもよいので、受け止めてほしいのです。

 

 今、本学では学生さんたちが実習を行っています。もしかしたら愛隣幼稚園にもお姉さん先生たちが来ていたり、これから来られるかもしれませんね。そうした学生さんたちに、10年近く教員をしていて思うことは、真面目な学生さんが増えている一方で、自分と異なる考え方や方針を受けとめるのが難しくなってきているように思えるということです。真面目なことは良いことですし、自分と異なる意見を受けとめにくいということは、自分の中で強い感情があるということなので、悪いことではありません。ただ、「受けとめられない」から自分の願いを諦めたり、やめてしまおうとする学生さんが少なからずいらっしゃるのです。

 

 例えば、実習でいうと「自分の思っていた保育と園の方針が違った」「クラス担任の先生と性格が合わない」だから実習をやめたいと言うのです。もちろん、全員がそのようなことを言うわけではありませんし、そういう思いがあっても最後までやり遂げる学生もいます。また、園の先生方も自分と同じ思いをもって保育者を目指す学生さんのために、誠心誠意を込めて指導してくださっています。それでも、受けとめられない学生さんは続けられないと言うのです。まぁ、そのような学生さんも説得して、色々な知恵を与え、諭して実習をさせるんですけどね。

 

 保育では、環境、文化、生育歴、家族背景、遺伝、思想、宗教、国籍等、全て異なる子どもたちが幼稚園や保育所、認定こども園に集まります。同然、一人ひとりが異なります。保護者の方の考え方も一人ひとり異なります。したがって、保育者はそうした一人ひとりの個性を受けとめたうえで、子どもたちが成長するための最良の方策を練って実践しています。そのため、他者の思いや考えを受けとめられないということは、保育者になろうと志す人にとっては、とても苦しい悩みだと思うのです。

 

 話は変わりますが、本学には美術教員が作成した作品が様々な場所に展示してあります。はっきり言って、私にはその作品で何を表現したいのかわからないものばかりです。牛の模様を切り抜いたような絵画やグリンピースかさやえんどうのような彫刻等、芸術に疎い私にとってはさっぱり意味がわかりませんでした。

 でも先日、作成した先生に「あれって、何ですか?」と尋ねたところ驚くべき答えが返ってきました。その先生は「私にもわかりません」とお答えになったのです。続けてその先生は「生命の根源である、種を表現して作りはしました。ただ、それをどう捉え受け取るかは見る人によります。おそらく他の(美術)先生も、見る角度や距離、天候、時間帯などによって、見る人が異なる印象を受け取るような技法を駆使して描いていますが、本人も何を描き上げたのかはわからないと思います」と仰いました。なんかよくわかりませんが、私たち見る側の人は作品をどんな風に受け取ってもよいそうなのです。

 芸術作品を見るときに「〇〇が表現されています」「△△という技法が使われていて素晴らしいのです」という風な解説ばかりに目がいってしまっていたので、芸術がとても格式高く、専門的なものに思えていた私は、芸術が本当はとても寛容性に富んだものだと知れ、ちょっと嬉しく思えました。

 

 保育も同じことだと思います。決まった形、方法はなく、受け手である子どもたちにとって有意義であればそれでよいのだと思います。

 しかしながら、現代社会は答えを教えることに必死な気がします。YouTubeを見れば、今まで知ることのできなかったことを知れる一方で、必然的に間違えずに成し遂げられる方法を教えられます。これまで活字ばかりで読む気にもならなかった専門書も、今ではマンガや挿絵が入った読みやすいものになりましたが、代わりにその「絵」に印象付けられ想像し、自分なりに考える必要はなくなりました。

 

 保育にも素話(すばなし)という技術があります。私も得意ではありませんが、いわゆるお話しです。絵本や紙芝居を使用せず、言葉だけで話を展開させていく技術になります。聞き手は話を聞くだけなので、全てを自分で想像しなければなりません。そのため、登場する「鬼」の色や形、大きさは聞き手によって異なります。どんな鬼を想像したか子どもたちに尋ねると、想像した色々な鬼を教えてくれるので面白いですよ。

 

 また、制作活動もそうですね。例えば「今日はみんなで象を描きましょう」と子どもたちは伝えられ、思い思いに象を描きますが、「象の鼻はどこにあるかな?」「象の色は何色かな?」と保育者は正解を伝えようとしてしまうことが多いように思えます。保育者には、そのように子どもたちが絵を描くことことにより、子どもたちの発達を測定するという意図があるのですが、全員が同じ構図の絵を描いて、壁に貼る必要があるのかはわかりません。私は、それぞれが想像する象を描いたらいいと思います。ピンクの象がいても、耳が小さい象がいてもよいと思うのです。それは、その子が思いを込めて描いた象ですからね。

 

 という私も、子どもが活動しているとき、ついつい「何作っているの?」「何してるの?」と聞いてしまい、「いけないな」と反省することがたくさんあります。「〇〇でしょ?」「△△楽しそうだね」と声をかけた方が会話が広がり、寛容性につながると思うんですけどね。「○○でしょ?」と言って合っていれば「そうだよ、ここに鼻付けて、耳も付けるんだよ」と子どもたちは答えてくれるかもしれません。違っていれば「違うよ、□□だよ」と言うでしょう。そうしたら「私には△△に見えたな、ここの部分がそっくりだもん」と話せますね。そうしたら子どもはそのからインスピレーションを受けて、「じゃあ、こうしていこう」とか「もっとここを工夫したほうがいいな」と思えるかもしれませんね。

 

 そういう小さい働きかけが、結果として大きくなってから、様々な意見や思考を受け入れる土台になるのではないでしょうか。何気ない日常の中に、子どもたちの成長の種は詰まっていると思います。

 その種を見つけ、大人がどうかかわるかで子どもの成長は大きく変化すると思います。一つ一つご自身なりに見つけて、気を配って子どもとかかわることは容易ではありません。

 ただ、皆さんが気付いた時、その種を見つけた時に、子どもたちにいたずら半分で試してみると面白いかもしれませんね。

 

 

松山東雲短期大学 保育科

講師      浅井 広