【子どもの個性とは?】

 【子どもの個性とは?】

 

 みなさん、こんにちは。

 先日、吉村真理子先生と対談させていただき、子どもがこれからも生きていく意義について考えさえていただきました。途中で色々と考えすぎて最後はまとまりのないコメントになり申し訳なかったです。たぶん考えていたことの半分もお伝え出来なかったかな、と思います。

 それにしても、吉村先生はすごいですね。一般的にご年配の方は経験値が高いので考え方が固くなっていくと思うのですが、吉村先生の考え方は柔軟でかつ前衛的でありながら、一本の信念が通っていますよね。そしてそれらの発想と知識を繋げていく思考力と相手に伝えていく語彙力や文章力に加えて、探求心や行動力、さらには吉村先生の温和な雰囲気、すごいところがあり過ぎてどう表現したらよいか困ってしまうくらい本当に魅力的な先生だなと感服いたします。

 

 さて、今回は子どもの「個性」について考えてみたいと思います。本学では月に一度、吉村先生にもご参加いただいて研究会をしているのですが、そこで議論された内容です。難しいのですが、考えさせられる内容でしたので、ご紹介しながら私の考えも書かせていただきたいと思います。

 

 この時は生物学をご専門にされている先生が書かれた本を題材に議論をいたしました。簡潔にまとめると、生物は多様性と斉一性(共通性)という反対の特質をもっている中で、「個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質」(広辞苑)を「個性」と呼んでいるようです。つまり、人も一人ひとり違うけれども、同じように考えたり、行動したり、成長の仕方や興味等が一致したりという共通性も持っています。その中で、その人にしかない性格や性質を個性と呼んでいるというわけですね。

 

 そして、生物として個性を生み出そうとするとき、遺伝子レベルで作り出される個性(生得的)と生まれてから周囲の環境によって生み出される個性(習得的)があると言います。広辞苑の定義に従えば、例えば、本来真っ赤な花を咲かせる花の中で一凛だけ真っ白な花が咲いたとしたら、それはその花の個性と呼べるわけです。一方、魚を食べるサルたちがいますが、これはあるサルがタカのような鳥から魚を奪って食べたことから始まった文化と考えられているそうです。この行動を最初に取ったサルは、周囲の環境(鳥が魚を食べる)から刺激をうけ、個性的な行動をとったサルということができます。

 

 保育の参考書を読むと「個性を尊重して」とか「個性を育む」と書かれていますが、そもそも保育で個性をどう考えたらよいのでしょうか?

 例えば、集団での活動をしているときに、一人だけその活動に参加しない子どもは個性的なのでしょうか?園から一人で飛び出して行ってしまう子どもは個性的ですか?どのような活動やお友達と遊ぶことよりも鉄道の本を読むことに夢中な子どもは?常にお友達に気を配り、いつでも相手を思って行動するとびっきり優しい子はどうでしょう?

 

 広辞苑に従えばこれらも個性と呼ぶことができるかもしれません。しかし、保育では「個性の尊重」と謳いながらも上記の個性とも捉えられる行動は、保育では認められないとか、問題行動として捉えられるケースがあります。それはもちろん、子どものことを思って、教育の一環として行われていることなので、保育者を非難しているわけではありません。ただ保育を含めた「教育」という営みは、「こうした方がもっと良くなる」「こうすると○○だからやめよう」「こういう時はこうしよう」「それも良いけど、こっちもしてみない」「みんなに優しくしてくれて嬉しいけど、自分のしたいことも表現していこう」と、悪く言えば子どもの個性をなくす教えも少なからずしているいうことです。

 

 それならば、「教育はしない方が良いのか」となりますが、もちろんそのようなことはありません。結局のところ、我々大人が良いと思える個性とそうでない個性があるということであり、許容できないとか行き過ぎた個性は教育という活動や集団生活の中で淘汰されるよう働きかけ、許容できる個性は尊重しようとするということではないでしょうか。

 

 つまり、私たちは「個性」を唯一無二のものとして捉えるのでなく、保育者や教師が認められるその子どもの良い部分を個性と呼んでいるだけではなかということです。しかもその個性は、大人によって作り上げられたというか、他の個性を削って大人によって残された個性かもしれないのです。

 

 このようなことを考えて何になるのだろうと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、私はこのような一見意味のないようなことを考えることも大切なことだと思っています。

 

 マザーテレサ(マザーテレサではないという人もいました)は以下のような名言を残したらしいです。

 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
 言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
 行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
 習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
 性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 

 保育や教育という活動は、考えて行動しているつもりでも、常にその場その場での対応を求められ、感覚的に応答しなければなりません。泣いている子、喜んでいる子にどのような声をかけるか、転んだ子にどう対応するか、楽しく遊んでいる子にどう援助するか等、瞬間で判断せざるを得ず、考えている余地などないのです。だからこそ、日頃から考えておくことが大切だと思うのです。

 

 今回で言うと、理念として子ども個性というものを大切にしようとしているけれども、きっと保育や教育という活動が完全なものではなく、保育者や教師が子どもの個性を尊重しきれていない部分があると認識しておくことで、様々な子どもの活動や思考を認めてあげられる場面が増えるのではないかと思います。それが保育者や教師の人間性となり、子どもに与える影響の1つになるのではないでしょうか。

 それでは子どもの言動を何でも許して、モラルや社会的なルールを教えられないと思われるかもしれませんが、その点はモデルとなる大人や年長児の姿が鍵になるのかなと。この課題については、いつかまたお話しさせていただく事があるかもしれません。

 

 長くなってしまいましたが、意味のないようなことでも日頃から考えることって大切だと思います。そうして大人が人間性を磨いていくことが、子どもたちにとっても良い影響を与えられたら良いかなと思っております。

 

松山東雲短期大学

講師  浅井 広